言霊

「志貴島の日本(やまと)の国は事霊(ことだま)の佑(さき)はう国ぞ福(さき)くありとぞ」(万葉集・柿本人麻呂)
 7・8世紀に言霊と言う概念があったことが分かるが、一体いつ頃からあるのかというと、いわゆる日本語が使われた初めからあったと考えられる。縄文時代には日本語が使われていたと考えられるが、文献となると、『ホツマツタヱ』しか残っていないので、これを見ていく。
日本翻訳センターが『ホツマツタエ』の現代語訳と英訳、仏訳を紹介するページ」から引用する。
「ホツマツタエは、古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩です。
縄文後期中葉から弥生、古墳前期まで約一千年の神々の歴史・文化を今に伝えています。
作者は、前半天の巻・地の巻をクシミカタマ(神武時代の右大臣)が、後半人の巻をオオタタネコ(景行天皇時代)が、編纂、筆録と記されています」
 記されている文字は、ヲシテ文字である。母音の対応する五大要素、空・風・火・
水・地を瞑想すると、円形・蹄鉄形・三角形・「え」の点を除いた形・四角形となるそうで、その形がそのまま、ア行・イ行・ウ行・エ行・オ行に使われている。
「天の巻 1アヤ」
 イサナミの「何かが足りない女陰(メモト)」とイサナギの「余りある物」と、「『お互いを和合(アワ)させて子供を産みましょう』と言って二人は床入りし、情熱のおもむくままに交わって子供を孕(はら)み、誕生した女の子の名前は、昼に生まれたのでヒルコと名付けました」
「しかしながらヒルコが生まれた年は、父イサナギ40歳、母イサナミは31歳で、2年後には男42歳、女33歳の天の節で大厄に当たります。 運悪くこの節目に悪霊(あくりょう)が宿れば、女の子は父の汚(けが)れに当たり、男の子は母の災いとなるといいます」
「ヒルコは親の元から引き離されて岩樟船(イワクスフネ)に乗せ捨てられました。下流でカナサキ(住吉神)が拾い上げて、妻のエシナズの乳を得て何不自由なく我が子同様に育てられました」
「又5歳からは常にアワ歌を教えて言葉を正します。
アカハナマ  イキヒニミウク
フヌムエケ  ヘネメオコホノ
モトロソヨ  ヲテレセエツル
スユンチリ  シヰタラサヤワ」
 アワ歌は竹下雅敏氏が分析し、4文字ずつで陰陽五行を表しているとした。
「年中行事を経たヒルコ姫は、今では美しい乙女に成長しました。厄もきれいに川の水に流された今、再び両親の元に呼び戻されて、兄の天照神の妹(イロト)として復活し、ヒルコの名もワカヒルメと変わりました」
 ハナキネ(のちのソサノオ)は尋ねた。「『和歌はなぜ五・七調に綴るのですか』姉(ワカ姫)は、『それは天地(アワ)の節(ふし)です』と答え」とあり、また「美しく四季られた敷島(しきしま)の上に人として生を受けた私達は、男子は三十一日目に産土神(うぶすな)にお礼参りをし、女子は三十二日目にお礼参りをするのも、この地の恵みに感謝するためです。これにより敷島を和歌の道と言います」とある。
「キシイ(紀州)の稲田(いなだ)にホオムシが大量発生」したとき、「ワカ姫の作った稲虫祓いの和歌の呪(まじない)」を歌い「稲田は元の様に鎮(しず)まりました」
 賢明な人なら気づいたことだろうが、稲田が出てくるからと言って弥生時代のことではなく、縄文時代のことである。私たちは稲作は弥生時代に大陸より伝わったと習ったが、縄文時代には既に稲田があったのである。現在日本最古の水稲耕作遺跡は、佐賀県の菜畑遺跡(約7000年前)である。
 幅広で四角く彫りが深い縄文人と、細長く平べったい弥生人の顔立ちの特徴は、捏造されたものであった。(CGS 日本の歴史 1-10)
 縄文時代には和歌を稲虫払いのマントラとして使っていることから、既に日本語の持つ言霊を認識し、活用していたことが分かる。また、アワ歌を教えて言葉を正すとあるが、表面的にはそれもあろうが、実際は強力なマントラの浄化作用こそが主眼だったのではないか。
 現在、私の病気は、唯一認可された薬が合わずに副作用が出て、薬を断ったので、日本の西洋医学では治療法がない。薬を断るまでに、竹下雅敏氏の東洋医学セミナーを学び、その中から今はマントラ・テラピーを行っている。病状の進行は止まっているので、引き続き行ってゆきたい。

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